圓福寺

東京都心からなら約90Km。
県北部の熊谷市から山梨県甲府市に至るR140か県南部の入間市から飯能市を経て長野県に至るR299を通り、歌舞伎とジオパークの小鹿野町に向かう途中に「田村郷」がある。
各種古文書や歴史郷土資料によると、中世の戦国時代には武蔵鉢形の北条と甲斐の武田の戦跡なのか?諸説あるが多くの謎が残る大規模な川原石等を利用した石積や土塁が今もしっかりと残っている。

そんな歴史的な風が香る蒔田川に架かる「天龍橋」を渡ると・・・

凛として美しい「楼門」が鎮座している。
ここは応安六年(1373)創建と伝えられる臨済宗大寶山園福寺。

この楼門は元禄八年(1695)に火災に遭い享保十六(1731)に再建された。
現在、秩父市の指定有形文化財(建造物)となっている。

楼門に立派な大樹一本彫りの金剛力士が奉納され訪れる者達を迎えている。

心を鎮め門を通り抜けると雄大な景観の本堂が姿を見せる。
ご本尊は脇侍文殊普賢菩薩を従えた釈迦如来。

「版」と言う禅宗の修行時に「夜明け」「日没」「就寝」など1日の時刻を告げる時計のようのな物で
人生は無常、時は人を待っていてはくれない
一時も怠けてはいけません
と言う戒めが書かれてあるそうです。

敷地内には禅寺らしく昔から土地の民の学びの場があったのだろう分教場跡の碑がある。

改修した時の住職より、檀家さん達への感謝の気持ちが刻まれていた。

境内に併せて祀ってある寿老人像は江戸時代の作と伝えられ、難を払うと言われる団扇を持ち「人の安全と健康を守る長寿の神」として古来より尊ばれています。
「人任せにはせず 出来ることは何でもします」
「全てが大切なお勤めです」と住職が微笑みながら話してくれた。

境内には数々の季節の花が生きている。
決して「ガーデニング」ではない。
一輪一輪が主張し過ぎることのない調和が心を和ませ時間(とき)を忘れさせる。

有形文化財「楼門」の保全消毒(特殊施工)

最近の寺社仏閣の悩み事(相談)にはハクビシン、アライグマ、タヌキ、ネズミ等の害獣によるものが多くなりました。

当社の文化財調査は専門の研修をしたスタッフが在籍してします。
(*高所調査は特殊作業のため必要性があると判断した場合のみに対応しています)

地上15M以上の調査・作業。
見ているだけで足がすくむ・・・・・・・・・

「多くの方々にお世話になって 大切な寺を守れます」
「ありがたいことです」と、いつも謙虚に人を包み込むように話をしてくださるご住職(中央)に記念撮影をお願いしました。

<右>文化財施工のレジェンド:野村部長(口癖は お陰様で・・・)
<左>調査担当:松原部長(現在、獣の気持ちになって考えらるよう修行中w)

<右>施工統括の野村部長
<中>クルー班長の矢作さん(郷ひろみと同学年。まだまだ現役バリバリ!)
<左>施工スタッフの金子さん(大工経験のある技術者)

本堂の正面中央にある歴史的な貴重価値のある石籠

多くの寺院は「〇〇山 〇〇寺」と山号を称します。
園福寺も正式には「大寳山(だいほうざん)園福禅寺」
「山号」の歴史は、唐の時代の中国で数多くの寺院が建立された時に、地域を区分する目的で寺院の名称の前に冠した説があり、山が多い日本では山はある意味で特別な存在で、食料や水を確保する大切な場所でもあったため「山を神の居る聖地」と考え山に宿る霊や神を怒らせないように山を信仰の対象として山岳信仰が仏教と結びつきやすかったようです。
園福寺には裏山がありません。
しかし、この楼門は秩父の信仰の聖山「三峰山」に向いて建てられています。
数百年も昔に、どのように計測されて建てることができたのか・・・
Googleで確認した時には鳥肌が立ってしましました。

編集後記
園福寺の山門を通り境内に入ると池があります。
そこには、手足を伸ばすと4~50センチ越えの主が住んでいます。
運の良い人なら、きっと会えるはず。
運の普通の人でも境内には影武者も待機していますので探してみて下さい。

文化財担当 大濵